教員リレーエッセイ Vol.3(2013.11.15)
良き師、良き友
青山学院大学大学院
会計プロフェッション研究科 教授
橋本 尚
日本会計研究学会のスタディ・グループ「21世紀へ向けての会計教育についての研究(最終報告)」で、「覚える会計学」から「考える会計学」へというわが国会計教育に対する基本姿勢の転換の必要性を提唱したのは、1996年のことであった(この最終報告は、その後の研究を加え、藤田幸男編著『21世紀の会計教育』として、白桃書房から1998年に出版された)。同スタディ・グループでは、アメリカ会計学会の「会計教育の将来の構造、内容および範囲に関する委員会」(通称、ベドフォード委員会)から1986年に公表された特別報告書『将来の会計教育―拡張を続ける会計プロフェッションに備えて』などの検討を通じて、「learning to lean(学び方を学ぶ)」こと、すなわち、「学び、考え、創造する」方法を学ぶことの重要性についても強調しているが、理想の会計教育を目指して、会計教育の現場における教師と学生の関わり方や会計の魅力とその社会的な意義や役割を熱く語りかける「心に残る授業」の実践方法などについて、あれこれと日々思いを巡らせているところである。
「覚える会計学」から「考える会計学」への転換は、教育の根本にかかわる発想の転換であり、そこには、学生を受動的な学習者から能動的・主体的な学習者へ転換させるねらいがある。また、これは、教えるべき内容の転換ないしは重点移行をも意味している。
「覚える会計学」が長年にわたって教えてきたものは、会計に関する知識であり、技術であった。確かに、知識や技術を身につけることは必要であるが、こうした詰め込み型ないしは紋切り型の学習、あるいは、簿記の学習に象徴されるようなテクニック偏重の風潮が、わが国における会計のイメージを暗く、無味乾燥なものとしてきた面が多分にあるように思われる。
翻って、「考える会計学」の使命は、世界に通用する会計の知恵、会計の心(アカウンティング・マインド)、さらには、高度な倫理観と正義感に根ざしたアカウンタビリティの基本を啓発することである。ここに「会計の心」とは、会計を社会の制度として活かす心であり、それは、アカウンタビリティの意味を正しく自覚する心でもある。
アメリカを代表する会計学者のペイトンとリトルトンは、かつて会計をhuman-service-institution(人間が人間に奉仕する制度)と表現したが、会計情報を作成する人の側に会計情報を利用する人に対する思いやりの心がなければ、会計は、社会の制度としてうまく機能しない。すなわち、制度をいくら見直してみても、制度を正しく動かそうとする意識を持たなければ、われわれの社会は、良くならないのである。この意味で、制度改革の基礎をなすものは、意識改革であるといっても過言ではないであろう。そして、この意識の改革を可能にするものこそ、教育なのである。
禅の言葉に「?啄同時」というものがあるが、最近、これこそが会計教育における教師と学生との理想の関係を表現する言葉ではないかとの思いに至った。
鳥の雛が卵の殻を破って出ようとして殻を内側からつつくのが「?」、それに応じて、親鳥が外から殻をつつき孵化を促すのが「啄」である。このタイミングが決め手となるのであり、早すぎても遅すぎても、雛は死んでしまう。親鳥は、卵を抱いて絶えず観察しているからこそ「?」に気づくことができ、その頃合いを見計らって、すかさず外から殻をつつくことによって、まさに絶妙の呼吸で、両者の共同作業により、卵が割れて雛がかえり、新たな命が誕生するのである。
禅の世界では、この「親鳥と雛」の関係が「師匠と弟子」の関係に転じて、理想の教育機会の比喩として用いられてきた。このような関係は、実学としての会計教育における「教師と学生」の関係にもあてはまるであろう。
欧米では、会計士としてのキャリアを積み重ねていく全段階において、信頼を寄せるメンター(師)を持つことが重要とされている。メンターという用語は、ホメロスの『オデュッセイア』に登場する「Mentor(メントール)」に由来する。新米の会計士が今まさに進んでいこうとする道の先にあるものについて、先達として「先を歩む」ことのできるメンターと行動を共にすることによって、彼にはまだ見えないものを「見ること」ができ、「語ること」ができるメンターから、その経験に基づくさまざまな助言や示唆を受けることにより、また、メンターと仰ぐ者からの支援や激励を受けることにより、彼は、独学の道を選択した場合にしばしば遭遇するような大きな困難に直面することなく、学習上の深刻な悩みや苦しみを抱えることもなく、順調な成長を遂げ、会計士としてのキャリアを磨いていくことができるのである。こうした関係は、メンターに責任感とアカウンタビリティを自覚させる機会ともなる。
新米の会計士がキャリアを積み重ねていく上でメンターを必要とするのとまったく同様に、彼には、「ともに歩む」友人も必要である。同志である同僚の存在は、腹を割って悩みを打ち明けることができる相談相手としても、また、共通の壁に突き当たった際に、何とか先に突破しようと切磋琢磨する競争相手としても、貴重な存在である。真の友人関係を築き上げるまでには、相当の時間を要するであろう。特に多忙な会計士にとっては、良き友を探し求めることは、良きメンターを探し求めること以上に至難の業かもしれない。しかし、良き友との交わりは、会計プロフェッショナルとしての彼の人生において、一生涯の宝となるにちがいない。
このようにして、かつて新米会計士としてメンターから導きを受けた者が、やがてメンターとなって、かつて受けた助言や示唆を次代を担う新米会計士へと継承していくことで、会計プロフェッションの伝統が綿々と受け継がれていくのである。
数多くの高弟を輩出した吉田松陰は、「親思ふ心にまさる親心けふの音づれ何ときくらん」という歌を詠んだ。会計教育の一端を担う者として、この歌のように、学生が教師を思う心以上に学生を思いやる教師でありたい。
「覚える会計学」から「考える会計学」への転換は、教育の根本にかかわる発想の転換であり、そこには、学生を受動的な学習者から能動的・主体的な学習者へ転換させるねらいがある。また、これは、教えるべき内容の転換ないしは重点移行をも意味している。
「覚える会計学」が長年にわたって教えてきたものは、会計に関する知識であり、技術であった。確かに、知識や技術を身につけることは必要であるが、こうした詰め込み型ないしは紋切り型の学習、あるいは、簿記の学習に象徴されるようなテクニック偏重の風潮が、わが国における会計のイメージを暗く、無味乾燥なものとしてきた面が多分にあるように思われる。
翻って、「考える会計学」の使命は、世界に通用する会計の知恵、会計の心(アカウンティング・マインド)、さらには、高度な倫理観と正義感に根ざしたアカウンタビリティの基本を啓発することである。ここに「会計の心」とは、会計を社会の制度として活かす心であり、それは、アカウンタビリティの意味を正しく自覚する心でもある。
アメリカを代表する会計学者のペイトンとリトルトンは、かつて会計をhuman-service-institution(人間が人間に奉仕する制度)と表現したが、会計情報を作成する人の側に会計情報を利用する人に対する思いやりの心がなければ、会計は、社会の制度としてうまく機能しない。すなわち、制度をいくら見直してみても、制度を正しく動かそうとする意識を持たなければ、われわれの社会は、良くならないのである。この意味で、制度改革の基礎をなすものは、意識改革であるといっても過言ではないであろう。そして、この意識の改革を可能にするものこそ、教育なのである。
禅の言葉に「?啄同時」というものがあるが、最近、これこそが会計教育における教師と学生との理想の関係を表現する言葉ではないかとの思いに至った。
鳥の雛が卵の殻を破って出ようとして殻を内側からつつくのが「?」、それに応じて、親鳥が外から殻をつつき孵化を促すのが「啄」である。このタイミングが決め手となるのであり、早すぎても遅すぎても、雛は死んでしまう。親鳥は、卵を抱いて絶えず観察しているからこそ「?」に気づくことができ、その頃合いを見計らって、すかさず外から殻をつつくことによって、まさに絶妙の呼吸で、両者の共同作業により、卵が割れて雛がかえり、新たな命が誕生するのである。
禅の世界では、この「親鳥と雛」の関係が「師匠と弟子」の関係に転じて、理想の教育機会の比喩として用いられてきた。このような関係は、実学としての会計教育における「教師と学生」の関係にもあてはまるであろう。
欧米では、会計士としてのキャリアを積み重ねていく全段階において、信頼を寄せるメンター(師)を持つことが重要とされている。メンターという用語は、ホメロスの『オデュッセイア』に登場する「Mentor(メントール)」に由来する。新米の会計士が今まさに進んでいこうとする道の先にあるものについて、先達として「先を歩む」ことのできるメンターと行動を共にすることによって、彼にはまだ見えないものを「見ること」ができ、「語ること」ができるメンターから、その経験に基づくさまざまな助言や示唆を受けることにより、また、メンターと仰ぐ者からの支援や激励を受けることにより、彼は、独学の道を選択した場合にしばしば遭遇するような大きな困難に直面することなく、学習上の深刻な悩みや苦しみを抱えることもなく、順調な成長を遂げ、会計士としてのキャリアを磨いていくことができるのである。こうした関係は、メンターに責任感とアカウンタビリティを自覚させる機会ともなる。
新米の会計士がキャリアを積み重ねていく上でメンターを必要とするのとまったく同様に、彼には、「ともに歩む」友人も必要である。同志である同僚の存在は、腹を割って悩みを打ち明けることができる相談相手としても、また、共通の壁に突き当たった際に、何とか先に突破しようと切磋琢磨する競争相手としても、貴重な存在である。真の友人関係を築き上げるまでには、相当の時間を要するであろう。特に多忙な会計士にとっては、良き友を探し求めることは、良きメンターを探し求めること以上に至難の業かもしれない。しかし、良き友との交わりは、会計プロフェッショナルとしての彼の人生において、一生涯の宝となるにちがいない。
このようにして、かつて新米会計士としてメンターから導きを受けた者が、やがてメンターとなって、かつて受けた助言や示唆を次代を担う新米会計士へと継承していくことで、会計プロフェッションの伝統が綿々と受け継がれていくのである。
数多くの高弟を輩出した吉田松陰は、「親思ふ心にまさる親心けふの音づれ何ときくらん」という歌を詠んだ。会計教育の一端を担う者として、この歌のように、学生が教師を思う心以上に学生を思いやる教師でありたい。
バックナンバー
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