教員リレーエッセイ Vol.6(2016.10.10)
公認会計士なくして日本経済に未来なし
―次代の会計プロフェッションへのメッセージ―
青山学院大学大学院
会計プロフェッション研究科 特任教授(当時)
浜田 康
会計なくして統治なし
会計や監査の関係で「面白い!」と思える本はなかなかないが、「帳簿の世界史」(ジェイコブ・ソール著、村井章子訳、文藝春秋社、2015年4月発行)は読み始めたらやめられないくらい「面白い!」。
17世紀、フランスはブルボン王朝の頂点にいてベルサイユ宮殿を建設したことでも有名なルイ14世が複式簿記の帳簿を持っていたとか、14世紀、フィレンツェのメディチ家をヨーロッパ最高の富豪にした当主、コジモ・デ・メディチの最強の武器が複式簿記と監査だったといった話が満載である。
また、この本の中でいく度か出てくるのが「会計なくして統治なし」という言葉である。国家というものにはさまざまな前提条件があるのだろうが、財政をしっかりと管理できていなければ、いずれは破たんしてしまう。これが「会計なくして統治なし」という言葉を生んだのだろう。
これは昔の話かと思うとそうでもない。破綻した夕張市や、自浄能力を失った社会保険庁(その結果、現在は、日本年金機構になっている)のように、20世紀になっても、自らの財政を把握できなかった組織はいくつもある。国レベルでも同じだ。年金や社会福祉コスト等の比重が増す中、財政破たんのリスクを回避し、若い世代への負担を少しでも軽減しようとして決定された消費税率の引き上げが、政治的駆け引きの道具と堕し、ダッチロールしている現状は、まさしく「会計なくして統治なし」の危険な含意を思い出すべき局面だろう。 統治という言葉は、企業に置き直せば、コーポレート・ガバナンスとなる。まさしく企業においても、コーポレート・ガバナンスの有効性は、会計をしっかり押さえていることが前提条件となる。東芝はよい例である。日本を代表する会社でありながら、会計を軽んずると、結局は会社を中から腐らせてしまうのである。
現代社会ではあらゆるところで会計が必要とされている。何も会社や国ばかりではない。たとえば、介護施設やボランティア団体も会計はきちんとしていなければならない。これらの組織で会計がいい加減になると、組織運営もできなくなる。結局困るのは、介護を受ける人々であり、被災した人々である。どのような組織・団体も、その目的とするところを達成するためには――表舞台からは見えないが――会計というバックボーンが不可欠だ。会計は、それらの組織・団体のためにあるのではなく、それらの組織・団体の果たすべき使命のためにあるのだ。
監査なくして会計なし
そしてそれに関連して、「帳簿の世界史」には、もうひとつ、我々の琴線に触れる言葉が出てくる。それが「監査なくして会計なし」である。
会計とは、国や企業が自らを運営・管理するために必要であるのはもちろんのこと、利害関係者への情報発信の基盤としても重要なのだが、それゆえに、その会計情報に誤りが含まれていれば、元も子もなくなってしまう。国や企業が適正な活動を行うための、セルフコントロールシステムとして、監査は重要なのだ。
前述のコジモ・デ・メディチは、ヨーロッパ各国に銀行業の支店を張り巡らせてビジネスを展開していたが、それぞれの支店長にも複式簿記で帳簿を作らせた上で、彼らを定期的に、帳簿持参でフィレンツェに集めたという。コジモ自身が「監査」をするためである。隆盛をきわめたメディチ家の経営は、まさに監査によって裏付けられていたわけである。
会計情報は、淡々と、事務的に作られるものではなく、認識の問題あり、測定の問題あり、そして、開示の問題もあり、実は大変むずかしい。だからこそ、そこには専門家の関与が欠かせないし、また、できあがった会計情報についても、その信頼性を確保するためには、監査という制度が欠かせないのだ。
指導性と批判性
公認会計士の勉強で最初に教えられるのが、指導性と批判性である。公認会計士に、このふたつは、車の両輪のように不可欠な資質なのである。
監査というものは、単純に言えば、会社や団体が作成した財務諸表を検証し、問題がないかどうか判別することなので、批判性ということはわかりやすい。監査に際して持つべき心構えとしても批判性は当然だと思われる。
しかし、指導性はどうだろうか? コンサルティングをするのでない限り、「監査において指導性を発揮する」というのは、独立性に抵触しないのだろうか? このように考える人は少なくない。
しかし、会社・団体に会計上の不正を実行させないためには、まさに、公認会計士の指導性が必要なのである。
会計上の不正――いわゆる粉飾――は、うまくいく時もある。だからこそ後を絶たないのだが、その満足感は麻薬のように会社・団体の正常な倫理観を麻痺させ、やがて会社・団体を再起不能になるまで蝕んでいく。昔のカネボウ、三洋電機など、数千億円、数兆円の売上高を誇っていた会社ですら、粉飾に芯まで蝕まれた会社は消えていくしかなかった。
これは、株主だけでなく、従業員、取引先、零細な下請けや外注先などにとって、避けられたはずの不幸である。
公認会計士や監査法人は、なぜ粉飾が見つけられなかったのかと責められることが多いが、もっとはるかに大事なことは、なぜ会計上の不正をしない会社へと導くことができなかったのか、なのだ。これこそが公認会計士の最重要の使命であり、公認会計士の指導性の真実である。
人生を賭けるにふさわしい仕事
このように、批判性と指導性を両方とも求められ、しかも社会的使命を課せられた職業は決して多くはない。もちろん努力は必要だが、努力の結果として得られるものはきわめて大きい職業である。さまざまな分野に挑戦すれば、努力しただけの成果が得られ、社会的意義を感じられることは間違いない。
不正をしない会社は、財務体質も強くなる。財務体質が強ければ、新たな投資、新たな分野へ挑戦することもできる。質の高い監査は、企業経済の足腰を鍛え、より強靭な経済体質を作ることにもつながるのだ。
優秀な公認会計士は、日本公認会計士協会や金融庁だけでなく、経済界も、強く求めている。多くの若者が公認会計士を目指し、優秀な監査人を目指してくれることを願ってやまない。
会計や監査の関係で「面白い!」と思える本はなかなかないが、「帳簿の世界史」(ジェイコブ・ソール著、村井章子訳、文藝春秋社、2015年4月発行)は読み始めたらやめられないくらい「面白い!」。
17世紀、フランスはブルボン王朝の頂点にいてベルサイユ宮殿を建設したことでも有名なルイ14世が複式簿記の帳簿を持っていたとか、14世紀、フィレンツェのメディチ家をヨーロッパ最高の富豪にした当主、コジモ・デ・メディチの最強の武器が複式簿記と監査だったといった話が満載である。
また、この本の中でいく度か出てくるのが「会計なくして統治なし」という言葉である。国家というものにはさまざまな前提条件があるのだろうが、財政をしっかりと管理できていなければ、いずれは破たんしてしまう。これが「会計なくして統治なし」という言葉を生んだのだろう。
これは昔の話かと思うとそうでもない。破綻した夕張市や、自浄能力を失った社会保険庁(その結果、現在は、日本年金機構になっている)のように、20世紀になっても、自らの財政を把握できなかった組織はいくつもある。国レベルでも同じだ。年金や社会福祉コスト等の比重が増す中、財政破たんのリスクを回避し、若い世代への負担を少しでも軽減しようとして決定された消費税率の引き上げが、政治的駆け引きの道具と堕し、ダッチロールしている現状は、まさしく「会計なくして統治なし」の危険な含意を思い出すべき局面だろう。 統治という言葉は、企業に置き直せば、コーポレート・ガバナンスとなる。まさしく企業においても、コーポレート・ガバナンスの有効性は、会計をしっかり押さえていることが前提条件となる。東芝はよい例である。日本を代表する会社でありながら、会計を軽んずると、結局は会社を中から腐らせてしまうのである。
現代社会ではあらゆるところで会計が必要とされている。何も会社や国ばかりではない。たとえば、介護施設やボランティア団体も会計はきちんとしていなければならない。これらの組織で会計がいい加減になると、組織運営もできなくなる。結局困るのは、介護を受ける人々であり、被災した人々である。どのような組織・団体も、その目的とするところを達成するためには――表舞台からは見えないが――会計というバックボーンが不可欠だ。会計は、それらの組織・団体のためにあるのではなく、それらの組織・団体の果たすべき使命のためにあるのだ。
監査なくして会計なし
そしてそれに関連して、「帳簿の世界史」には、もうひとつ、我々の琴線に触れる言葉が出てくる。それが「監査なくして会計なし」である。
会計とは、国や企業が自らを運営・管理するために必要であるのはもちろんのこと、利害関係者への情報発信の基盤としても重要なのだが、それゆえに、その会計情報に誤りが含まれていれば、元も子もなくなってしまう。国や企業が適正な活動を行うための、セルフコントロールシステムとして、監査は重要なのだ。
前述のコジモ・デ・メディチは、ヨーロッパ各国に銀行業の支店を張り巡らせてビジネスを展開していたが、それぞれの支店長にも複式簿記で帳簿を作らせた上で、彼らを定期的に、帳簿持参でフィレンツェに集めたという。コジモ自身が「監査」をするためである。隆盛をきわめたメディチ家の経営は、まさに監査によって裏付けられていたわけである。
会計情報は、淡々と、事務的に作られるものではなく、認識の問題あり、測定の問題あり、そして、開示の問題もあり、実は大変むずかしい。だからこそ、そこには専門家の関与が欠かせないし、また、できあがった会計情報についても、その信頼性を確保するためには、監査という制度が欠かせないのだ。
指導性と批判性
公認会計士の勉強で最初に教えられるのが、指導性と批判性である。公認会計士に、このふたつは、車の両輪のように不可欠な資質なのである。
監査というものは、単純に言えば、会社や団体が作成した財務諸表を検証し、問題がないかどうか判別することなので、批判性ということはわかりやすい。監査に際して持つべき心構えとしても批判性は当然だと思われる。
しかし、指導性はどうだろうか? コンサルティングをするのでない限り、「監査において指導性を発揮する」というのは、独立性に抵触しないのだろうか? このように考える人は少なくない。
しかし、会社・団体に会計上の不正を実行させないためには、まさに、公認会計士の指導性が必要なのである。
会計上の不正――いわゆる粉飾――は、うまくいく時もある。だからこそ後を絶たないのだが、その満足感は麻薬のように会社・団体の正常な倫理観を麻痺させ、やがて会社・団体を再起不能になるまで蝕んでいく。昔のカネボウ、三洋電機など、数千億円、数兆円の売上高を誇っていた会社ですら、粉飾に芯まで蝕まれた会社は消えていくしかなかった。
これは、株主だけでなく、従業員、取引先、零細な下請けや外注先などにとって、避けられたはずの不幸である。
公認会計士や監査法人は、なぜ粉飾が見つけられなかったのかと責められることが多いが、もっとはるかに大事なことは、なぜ会計上の不正をしない会社へと導くことができなかったのか、なのだ。これこそが公認会計士の最重要の使命であり、公認会計士の指導性の真実である。
人生を賭けるにふさわしい仕事
このように、批判性と指導性を両方とも求められ、しかも社会的使命を課せられた職業は決して多くはない。もちろん努力は必要だが、努力の結果として得られるものはきわめて大きい職業である。さまざまな分野に挑戦すれば、努力しただけの成果が得られ、社会的意義を感じられることは間違いない。
不正をしない会社は、財務体質も強くなる。財務体質が強ければ、新たな投資、新たな分野へ挑戦することもできる。質の高い監査は、企業経済の足腰を鍛え、より強靭な経済体質を作ることにもつながるのだ。
優秀な公認会計士は、日本公認会計士協会や金融庁だけでなく、経済界も、強く求めている。多くの若者が公認会計士を目指し、優秀な監査人を目指してくれることを願ってやまない。
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