教員リレーエッセイ Vol.4(2014.10.15)
人生のバランスシート
青山学院大学大学院
会計プロフェッション研究科 特任教授
鵜川 正樹
1.機能するバランスシート
1999年東京都知事に当選した石原慎太郎氏は、国も地方自治体もバランスシート(貸借対照表)がないと指摘して、国に先がけて東京都からバランスシートの作成を始めると宣言した。その作成を依頼されたのが、当時、日本公認会計士協会会長であった中地宏先生であった。中地先生のもとで、私たち会計士5人が、東京都のバランスシートの作成を始めたのであるが、その根底にあった思想は、「機能するバランスシート」であり、会計情報という新しい武器を手にして、経営改革に取り組むことであった。そのため、会計基準としては、国際公会計基準(IPSAS)をベースにしている。国際公会計基準とは、国際会計基準(IFRS)を基に、国際会計士連盟が公的部門向けに作成しているものである。
私たちが、初めて作成した財務諸表とその考え方をまとめた著書が、『自治体経営と機能するバランスシート』(ぎょうせい、2001年)であった。八田進二先生(青山学院大学大学院教授)からは、その書評の中で、IPSASを採用した意義について、貴重なご意見をいただいた。その後、我が国の政府・自治体会計の状況は、財務諸表としては、国際的な水準には届かないが、財務諸表を正規の簿記に基づいて作成しようという段階にようやく来たところである。
2.人生のバランスシート
ところで、中地先生は、当時、70歳前後であったが、自治体のバランスシートに関連して「人生のバランスシート」という言葉をよくおっしゃることがあった。その趣旨としては、現在まで色々な人のご恩やお世話になって人生を送ってきたが、人生のバランスシートを作成したら、負債が増えるばかりであった。これからは、少しでも負債を返済して、全部返済できるかどうかわからないが、人生の終わりにはバランスできれば幸せである。
この人生のバランスシートということに関連して、最近、気がついたことであるが、福澤諭吉の『学問のすゝめ』(原書は1872年、福澤37歳のときに初編刊)の中に、「心事の棚卸し」(第14編)という章があり、人生の棚卸しの有用性を説いている。この内容は現在でも色褪せないし、普遍的なことを指摘している。ここでは、私自身への戒めを兼ねて、その要点を紹介しておこうと思う。
私が福澤の著作を少し読むようになったのは、自分でも教育や研究のことを考えるようになってからである。福澤には、『学問のすゝめ』の他にも、『文明論乃概略』(1875年)のような優れた思想書があるが、「心事の棚卸し」は、個人的な処世の知恵を教えているものである。 3.心事の棚卸し
福澤は、歯切れのよい文体で、抽象的・一般的な議論を述べた後に、卑近でわかりやすい事例を述べるという文章の構成をとることが多く、読者は共感を覚えやすい。本稿では、紙面の都合上、要点だけを引用しているが、原書を読んでその面白さを感じてもらえれば幸いである。出典は福澤諭吉、伊藤正雄校注『学問のすゝめ』(講談社、2006年)に依っている。なお、一部分を抽出して引用している。
①人間は案外の失策多し
人の世を渡るありさまを見るに、心に思ふよりも案外に悪をなし、心に思ふよりも案外に愚を働き、心に企つるよりも案外に功を成さざるものなり。
物事に当たりて行ふときは、決してこれを悪事と思はず、毫も心に恥づるところなきのみならず、一心一向によきことと信じて、他人の異見などあれば、かへってこれを怒り、これを怨むほどにありしことにても、年月を経て後に考ふれば、大いにわが不行き届きにて、心に恥ぢ入ることあり。
必竟世の事変は活物にて、容易にその機変を前知すべからず。これがために智者といへども案外に愚を働くもの多し。
②仕事と日時を比較せざる弊
人の企ては常に大なるものにて、事の難易・大小と時日の長短とを比較することはなはだ難し。フランキリンいへることあり、「十分と思ひし時も、事に当たれば必ず足らざるを覚ゆるものなり」と。この言真にしかり。
みな事の難易と時の長短とを比較せずして、時を計ること寛に過ぎ、事を視ること易に過ぎたる罪なり。
期限の長き未来をいふときには、大造なる事を企つるやうなれども、その期限やうやう近くして、今日今日と迫るに従ひて、明らかにその企ての次第を述ぶることあたはざるは、必竟ことを企つるに当たり、時日の長短を勘定に入れざるより生じる不都合なり。
③わが半生を時々点検すべし
この不都合を防ぐの方便はさまざまなれど、今ここに人のあまり心付かざる一箇条あり。事業の成否得失につき、時々自分の胸中に差し引きの勘定を立つることなり、商売にていへば、棚卸しの総勘定のごとくものこれなり。
商売に一大緊要なるは、平日の帳合ひを精密にして、棚卸しの期を誤らざるの一事なり。
「過ぐる十年の間には、何を損して何を益したるや。現今は何らの商売をなして、その繁昌のありさまはいかなるや。今は何品を仕入れて、いづれの時いづれのところに売り捌く積もりなるや。来年も同様の商売にて慥かなる見込みあるべきや。もはや別に智徳を益すべき工夫もなきや」と諸帳面を点検して、棚卸しの総勘定をなすことあらば、過去・現在身の行状につき、必ず不都合なることも多かるべし。
その原因は、ただ流れ渡りにこの世を渡りて、かつてその身のありさまに注意することなく、「生来今日に至るまでわが身は何事をなしたるか、今は何事をなせるや、今後は何事をなすべきや」と、自らその身を点検せざるの罪なり。ゆえにいはく、商売のありさまを明らかにして、後日の見込みを定むるものは、帳面の総勘定なり。一身のありさまを明らかにして、後日の方向を立つるものは、智徳事業の棚卸しなり。
以上、要点の引用であったが、私自身も、心事の棚卸しを怠らずに、人生のバランスシートを均衡できるように努めたいと思うものである。
1999年東京都知事に当選した石原慎太郎氏は、国も地方自治体もバランスシート(貸借対照表)がないと指摘して、国に先がけて東京都からバランスシートの作成を始めると宣言した。その作成を依頼されたのが、当時、日本公認会計士協会会長であった中地宏先生であった。中地先生のもとで、私たち会計士5人が、東京都のバランスシートの作成を始めたのであるが、その根底にあった思想は、「機能するバランスシート」であり、会計情報という新しい武器を手にして、経営改革に取り組むことであった。そのため、会計基準としては、国際公会計基準(IPSAS)をベースにしている。国際公会計基準とは、国際会計基準(IFRS)を基に、国際会計士連盟が公的部門向けに作成しているものである。
私たちが、初めて作成した財務諸表とその考え方をまとめた著書が、『自治体経営と機能するバランスシート』(ぎょうせい、2001年)であった。八田進二先生(青山学院大学大学院教授)からは、その書評の中で、IPSASを採用した意義について、貴重なご意見をいただいた。その後、我が国の政府・自治体会計の状況は、財務諸表としては、国際的な水準には届かないが、財務諸表を正規の簿記に基づいて作成しようという段階にようやく来たところである。
2.人生のバランスシート
ところで、中地先生は、当時、70歳前後であったが、自治体のバランスシートに関連して「人生のバランスシート」という言葉をよくおっしゃることがあった。その趣旨としては、現在まで色々な人のご恩やお世話になって人生を送ってきたが、人生のバランスシートを作成したら、負債が増えるばかりであった。これからは、少しでも負債を返済して、全部返済できるかどうかわからないが、人生の終わりにはバランスできれば幸せである。
この人生のバランスシートということに関連して、最近、気がついたことであるが、福澤諭吉の『学問のすゝめ』(原書は1872年、福澤37歳のときに初編刊)の中に、「心事の棚卸し」(第14編)という章があり、人生の棚卸しの有用性を説いている。この内容は現在でも色褪せないし、普遍的なことを指摘している。ここでは、私自身への戒めを兼ねて、その要点を紹介しておこうと思う。
私が福澤の著作を少し読むようになったのは、自分でも教育や研究のことを考えるようになってからである。福澤には、『学問のすゝめ』の他にも、『文明論乃概略』(1875年)のような優れた思想書があるが、「心事の棚卸し」は、個人的な処世の知恵を教えているものである。 3.心事の棚卸し
福澤は、歯切れのよい文体で、抽象的・一般的な議論を述べた後に、卑近でわかりやすい事例を述べるという文章の構成をとることが多く、読者は共感を覚えやすい。本稿では、紙面の都合上、要点だけを引用しているが、原書を読んでその面白さを感じてもらえれば幸いである。出典は福澤諭吉、伊藤正雄校注『学問のすゝめ』(講談社、2006年)に依っている。なお、一部分を抽出して引用している。
①人間は案外の失策多し
人の世を渡るありさまを見るに、心に思ふよりも案外に悪をなし、心に思ふよりも案外に愚を働き、心に企つるよりも案外に功を成さざるものなり。
物事に当たりて行ふときは、決してこれを悪事と思はず、毫も心に恥づるところなきのみならず、一心一向によきことと信じて、他人の異見などあれば、かへってこれを怒り、これを怨むほどにありしことにても、年月を経て後に考ふれば、大いにわが不行き届きにて、心に恥ぢ入ることあり。
必竟世の事変は活物にて、容易にその機変を前知すべからず。これがために智者といへども案外に愚を働くもの多し。
②仕事と日時を比較せざる弊
人の企ては常に大なるものにて、事の難易・大小と時日の長短とを比較することはなはだ難し。フランキリンいへることあり、「十分と思ひし時も、事に当たれば必ず足らざるを覚ゆるものなり」と。この言真にしかり。
みな事の難易と時の長短とを比較せずして、時を計ること寛に過ぎ、事を視ること易に過ぎたる罪なり。
期限の長き未来をいふときには、大造なる事を企つるやうなれども、その期限やうやう近くして、今日今日と迫るに従ひて、明らかにその企ての次第を述ぶることあたはざるは、必竟ことを企つるに当たり、時日の長短を勘定に入れざるより生じる不都合なり。
③わが半生を時々点検すべし
この不都合を防ぐの方便はさまざまなれど、今ここに人のあまり心付かざる一箇条あり。事業の成否得失につき、時々自分の胸中に差し引きの勘定を立つることなり、商売にていへば、棚卸しの総勘定のごとくものこれなり。
商売に一大緊要なるは、平日の帳合ひを精密にして、棚卸しの期を誤らざるの一事なり。
「過ぐる十年の間には、何を損して何を益したるや。現今は何らの商売をなして、その繁昌のありさまはいかなるや。今は何品を仕入れて、いづれの時いづれのところに売り捌く積もりなるや。来年も同様の商売にて慥かなる見込みあるべきや。もはや別に智徳を益すべき工夫もなきや」と諸帳面を点検して、棚卸しの総勘定をなすことあらば、過去・現在身の行状につき、必ず不都合なることも多かるべし。
その原因は、ただ流れ渡りにこの世を渡りて、かつてその身のありさまに注意することなく、「生来今日に至るまでわが身は何事をなしたるか、今は何事をなせるや、今後は何事をなすべきや」と、自らその身を点検せざるの罪なり。ゆえにいはく、商売のありさまを明らかにして、後日の見込みを定むるものは、帳面の総勘定なり。一身のありさまを明らかにして、後日の方向を立つるものは、智徳事業の棚卸しなり。
以上、要点の引用であったが、私自身も、心事の棚卸しを怠らずに、人生のバランスシートを均衡できるように努めたいと思うものである。
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